歴史ロマン 450年36日前、家の前の道を武田信玄が通る

 

昨夜は歴史ロマンの時間でした。

自宅のある、両河内の交流館であった歴史講座に行ってきました。

講師は関口宏行先生。

清水の中学生が、キャンプなどで使う和田島自然の家の近くに、戦国時代、山城がありました。

名前がないので、仮の名前として、和田島城と仮称して説明をしていただけました。

 

夜の時間でしたので、教室にお電話をいただいた方、出ることができませんでした。

申し訳ございません。

 


 

永禄11年12月6日、武田信玄が軍事同盟をやぶって駿河に侵攻。

12月12日北条氏政が今川氏真を救援するため小田原出陣。

氏政が薩田峠での信玄とのバトルを制し永禄12年3月14日薩田山制圧。

由比側から薩田峠の展望台に上る途中に「ここで戦がありました」という看板がありますね。

「へえ、ここであったの」

というくらい狭い道で、急斜面ばかりのところです。

 

安部川向岸にいる親今川勢に挟まれた信玄は兵糧の限界から永禄12年4月24日、駿河からの脱出を決行。

信玄以下1万の軍勢が4月24日早朝撤退を開始して28日に甲府に帰陣までに、どのルートを使ったか。

これが今回のメインテーマ。

信玄にとっては、興津川沿いにのぼって抜けていくのがベスト。そのため、興津川沿いに帰ったという説もあります。52号線を興津からのぼっていくということです。

地元の私たちにはわかりますが、薩田山と興津川は近接しているため、興津の河口付近からしばらく上のほうまでは北条勢が山ほどいるはずです。

そんなところを戦闘を避けて抜けられるわけがありません。

そうすると考えられるのは、興津川西にある、庵原川沿いに上り、さらに中河内川ぞいに樽峠を抜けて山梨側にでたのではないか。もしくは、興津川本流の上流に出て徳間峠を抜けたのではないか。

樽峠も徳間峠も、確かに道はあるけれど・・・・・・・。

大昔は、そこを通って山梨側からお嫁さんが来たという言い伝えがあります。

 

その頃の道というのは、幅1メートル20センチ程度だそうです。

そんなところを、武者や馬が通っていったということですね。

子供のころから中河内に住んでいる人がいうには、樽峠に向かう途中の道の近くに「ここに信玄が座った」という伝説がある石があるそうです。
 

現在、樽峠って確かに人なら通れる道はあるそうですけど、けっこうきついハイキングになります。

ハイキングとはもう言わないかも。

このあいだの雨でふさがっているところはいっぱいだと思います。

 

その、信玄撤退のときに重要な拠点となったのが、和田島城と思われます。

資料の地図でみると、交流館の裏から高山トンネルまでの間のどっかの山に平らなところがあって、そこが山城として使われたということです。

このときの信玄の撤退ルートがはっきり書かれた歴史文献はないそうです。

ウチは、中河内川に沿った道ぞいにあります。

だから想像の域を出ないけれど、450年と36日前に、ウチの前の道を武田信玄とその大軍が通過して行ったかもしれないと思うと心がワクワクします。

 

信玄が甲府に帰るために通った道を使って、いつも教室に来ています。

今日はビン・缶の日なので、その道を使って早く帰ろうと思います。

教室にはいませんが、電話はちゃんと出ますので安心してください。